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「ジークフリート牧歌」の引用

ワーグナーの「ジークフリート牧歌」は、当時作曲が仕上げの段階に入っていた楽劇「ジークフリート」の最終場面(第三幕の最後十数分)と共通の素材を使って書かれた作品ですが、そこに含まれない素材として、提示部の終わりの方、91小節目でオーボエに可愛らしい旋律が出てきます(下記)。

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(Breitkopf und Härtel版のパート譜から)

 これが "Schlaf, Kindlein, schlaf"(「眠れ、幼子よ、眠れ」などと訳されます)という子守歌を引用している、というのは解説などによく書いてあります。そして、この旋律は「ドイツ民謡」のもの、というふうに書かれることが多いです。

調べてみると、"Schlaf, Kindlein, schlaf" という歌詞のそこそこ有名なドイツ民謡が存在するのは確かなようです。ドイツ語版wikipediaの記事(Schlaf, Kindlein, schlaf – Wikipedia)によると、歌詞が初めて記録されたのが1611年、旋律が記録されたのが1781年、だそうです。しかし載っている譜例を見ると、どうもこの旋律は「ジークフリート牧歌」のものとは違っています。確かにどちらも下降音階による旋律ではあるのですが、こちらは三音の下降、あちらは五音+四度の下降で、これが引用元、と言われると少し首をかしげたくなります。

ではどこが出所なのかというと、ものの本によるとこの旋律はワーグナーが作詞・作曲したものなのだそうです。ワーグナーが長い期間つけていた "Das Braune Buch"(「茶色本」?)という日記があって、そこに1868年の大晦日の日付で、下記の旋律と歌詞が記録されているとのこと。

 

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(Ernest Newman "The Life of Richard Wagner" Cambridge University Press, 2014. p. 717)

もとの楽譜はほぼ四声で書かれていて*1、この譜例は旋律だけを抜き出しているそうですが、「ジークフリート牧歌」の旋律そのものです。歌詞も民謡のものとはまったく違っていて、冒頭一行だけがほぼ同じですがこれは子守歌ならかぶっても当然の言葉でしょう。

自分は日記そのもの(英語版もあります)は読んでいませんが、息子ジークフリートが生まれたのが翌1869年の6月なので、妊娠が分かっていた我が子のために書いた、というところなのでしょうか。それを二年後、息子と妻のためのとっておきのプレゼントに引っぱり出してきたと。日記が世に出たのは1934年(コジマとジークフリートはともに1930年没ですね)で、それまでこの旋律の出所は謎だったことになります。

可能性の話をするなら、一番有名なものとは違うバージョンの民謡があるとか、民謡を下敷きにワーグナーが旋律を発想したとかはありうることなので、既存の記述は間違いだ! だとかいう話ではないのでしょうが。

*1:ネットで見られるところだと、Matthew Boyle
"Sonata Reinvented: Form in Richard Wagner’s Siegfried Idyll" (2009) という論文(https://getd.libs.uga.edu/pdfs/boyle_matthew_l_200905_bmus.pdf)で引用されています。