autour de 30 ans.

勉強したことを書きます

「オーベルマンの谷」について

「巡礼の年」第一年の中核となる「オーベルマンの谷」(Vallée d'Obermann)。大曲群の中でダンテやソナタに演奏頻度は譲るかもしれませんが、代表作の一つとして十分に認められている曲でしょう。初稿の作曲はマリー・ダグー夫人との生活のさなかの1835-36年とかなり早く、1858年出版の最終稿にも若々しい*1ロマンティシズムがはっきりと感じられます。題名の由来はこの曲の献呈先でもあるセナンクールの小説『オーベルマン』で、「オーベルマンの谷」なる地名は存在しないというのは有名な話だと思います。

曲の冒頭には『オーベルマン』と、曲集全体の基調になっているバイロンの『チャイルド・ハロルドの巡礼』の文章が掲げられています。該当部分を全て引用しておきます*2

自分は何を欲するのか? 自分は何者か? 自然には何を求むべきか? (...)すべての原因は人の目に見えず、すべての結果は人をあやまる。すべての形態は変化し、すべての継続には終りが来る(...)僕は制御し得ない諸々の欲望に身をすり減らすため、或る架空の世界の誘惑を満喫するため、その甘美な謬りに打ちのめされるためにものを感じ、存在してゐるのだ。

(『オーベルマン』市原豊太訳、第六十三信)

空しく過ごされる幾年かの悦楽でもあり、苦患でもあった名状し難い感受性、到る處その力に気壓され、到る處その底知れなさに驚かされる大自然を感得する廣漠たる意識、時空を問はぬ萬物への熱情、深遠の處に達した叡智、肉の快樂にも似た忘我、およそ人間の心として抱き得る限りのあらゆる欲求と深い煩悩など、この忘れ難い一夜の間に、僕はすべてを感じ、すべてを知った。衰退の年齢の方へ僕は不吉な一歩を進めたのだ。壽命を十年ほど使ひ減らしてしまった。心の常に若い単純な人間は如何に幸福なことか。

(同、第四信)

もし今わたしの内奥にあるものに実体を与え、
明かすことができたなら、もしわたしの想念を言葉にし、
強かれ弱かれ、魂、心、精神、激情、感情を、
求めたであろう、そして求めるすべてを、
抱き、知り、感じ、吸収するすべてを、
一語で表現できたなら、そしてその一語が稲妻であれば、
わたしは語りもしよう。しかしそれはかなわぬこと、
それゆえ鞘の中の剣のように、いとも声なき思いを
胸に納め、何も言わず、聞かず、生き、そして死ぬ。

(『チャイルド・ハロルドの巡礼』東中稜代訳、第3巻97節)

 

第1部

1-8 楽想a
9-12 楽想b
13-25 楽想aの敷衍
26-33 楽想c
34-66 ここまでの繰り返し
66-74 ホ短調への解決

第2部

75-94 楽想d ハ長調
95-118 楽想e イ長調

第3部

119-127 Recitativo
128-138 Più mosso
139-160 Presto
161-169 Lento

第4部

170-179 楽想dの再現 ホ長調
180-187 楽想f(上行) ホ長調
188-195 楽想d ホ長調
196-207 楽想f ホ長調
208-216 終結 ホ長調

 

やはりソナタ形式ですが、単一動機による支配が徹底しています。ここでは比較的細かく割りましたが、大まかに第1部が主調部、第2部が副次調部、第3部が展開で第4部が(副次調部の)再現と理解可能です。 

第1部

f:id:quasifaust:20180406204951j:plain

(譜例はすべてJosé Vianna da Motta校訂のBreitkopf & Härtel版から)

バリトン音域の渋い旋律で開始。冒頭の三音下降が全曲の基礎となり、ほとんどの楽想はこの動機に基づいています。始まりは一応ホ短調ですが、三度関係の転調でたった八小節で変ロ短調まで行ってしまいます。

f:id:quasifaust:20180406205201j:plain

半音階的で弱々しい次の楽想bも下降音型。エンハーモニックを辿った、一応嬰へ短調です。不安定な響きのまま、楽想aの動機を敷衍する部分が続いてゲネラルパウゼで断ち切られます。

f:id:quasifaust:20180406205229j:plain

うめくようなコラール風の楽想c。この曲では貴重な上行音型ですが、バスはしっかり基本の下降動機に従っています。変ホ短調イ短調と相変わらずの遠隔調です。

34小節目で一瞬ホ短調に解決すると、ここまでの流れが転調の道を変えながらもう一度繰り返されます。動機aの敷衍は変ホ長調の安定した和音で雰囲気が和らぎますが、動機cで再び暗転。その後ようやく音楽はホ短調で終止します。

冒頭の調性が曖昧なのはリスト、というかロマン派音楽では日常茶飯事とはいえ、この曲では演奏時間にして4、5分、全曲の約三分の一に渡って主調が確立しないわけで、なかなか目立つ事態だと思います。

f:id:quasifaust:20180406205447j:plain

これまであてもなくさまよってきた音楽を浄化するように明確なハ長調で出てくる楽想d。音域もこれまでから格段と上へ行って、澄んだ響きを作り出しています。冒頭はやはり三音下降。

イ長調に移って旋律が半音階的になっても柔らかな雰囲気は続きますが、次第にフラット方面へ傾いていくと、減七和音の響きで次の場面に移ります。

f:id:quasifaust:20180406205504j:plain

減七に乗ったオクターヴレチタティーヴォ(そろそろ飽きてきましたがこれも下降音階)から嵐のような展開部分が始まります。ここまでがずっと極めて平易な書法だったのに対し、一気に派手な音響が展開します。Più mossoから左手に出てくる増音程を含む三音音型は楽想dがもとでしょうか。

オクターヴの連続でクライマックスを作ったあと、161小節からは薄いテクスチュアで、単音レガートの下降音型と愛想のない低音(バスに下降音型)の対話が続きます。

f:id:quasifaust:20180406205536j:plain

 170小節から楽想dがホ長調で再現、ここまでの緊張感がすべて解決されます。

f:id:quasifaust:20180406205555j:plain

続く楽想fはようやく旋律が上行に反転しての泣かせどころ。和声が楽想eに少し似ているのは偶然でしょうか。

188小節からは和音連打やオクターヴに彩られて、楽想dをこれでもかとばかりに盛り上げていきます。当然ながら細かい音型や断片的な旋律も基本的に下降音型からの派生。曲の最後もどんどん低い音域へと音が密集していき、一度オクターヴで持ち上がるものの*3、中低音域で基本動機を強奏して終わります。

ソナタ形式としては、1) 主調提示部が最後まで解決せず、古典的なソナタ形式の主調(安定)→転調(不安定)→主調(安定)ではなく調性不明→調性安定、という一直線の構成をとっている、2) 主調主題再現を省略、3) 副次調楽想も主調楽想から派生している、あたりが特徴でしょうか。1、2については50年代の最終形で生まれたものですが、もっともリストが壮年期に入ってからの新機軸というわけではなく、かなり早く書かれた単独曲の「詩的で宗教的な調べ」S.154(1834)や、パラフレーズ系でいうと「ニオベ」「フィガロ」、「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」は、後半でようやく出てくる調の安定した主題を前半でひたすら変形して焦らしつづける作りをしています。

ちなみに、冒頭の主題についてはウェーバーソナタ4番との類似を指摘する人がいます*4

f:id:quasifaust:20180406205038j:plain

(譜例はすべてKöhler, Schmidt校訂のPeters版から)

二度目に出てくるときにはさらに近付く。

f:id:quasifaust:20180406205102j:plain

こちらも単一主題的な作りで、副次調主題は主調主題同様に下降音階からなっています。リストも存在を知っていた曲だとは思いますが、どこまで参考にしたかは別件。

f:id:quasifaust:20180406205131j:plain

 

前出のとおり、この曲には初版のバージョンがあり、1840年頃出版の「旅人のアルバム」(Album d'un voyageur, S.156)なる曲集、全三巻あるうちの第一巻に収められています。最終版までには全体にわたり徹底的に手が入れられていて、形式の変遷という点でも興味深いです。

f:id:quasifaust:20180406205758j:plain

(譜例はすべてJosé Vianna da Motta校訂のBreitkopf & Härtel版から)

初版ではまず一ページの前奏があるのが驚きですが、その後に出てくる楽想a(の原型)も大分違います。二小節目で文句のつけようのないホ短調主和音が鳴り、その後も少しふらつきながらずっとホ短調の周りを動いていて、どんどん遠隔調へ飛んでいく最終稿とは相当な差があります。

f:id:quasifaust:20180406210109j:plain

副次調主題。旋律線は最終版の楽想dと同じですが調性は型通りのト長調になり、テクスチュアも音域を広く使うものになっています。

初版ではレチタティーヴォの後、主調主題が律儀に再現されたあとに副次調主題の再現が続きます。

f:id:quasifaust:20180406210045j:plain

最後の盛り上がりのなかで現れる、最終形でカットされた*5楽想。最終形の184小節にも似たものが八分音符で出てきますが、初版では前半からすでに登場し、レチタティーヴォの前の部分ではより目立つ形で展開されます。

構成の切り詰めと書法の整理はリストの改訂の常套手段ではありますが、楽想や調の効果自体も変わっているのは面白いところです。

 

「オーベルマンの谷」にはこの二つの版のほかに*6ピアノ三重奏編曲版があります。晩年の1880年ラッセンの作った編曲にリストが手を入れるついでに加筆したもので、1986年に新たに発見。年代のこともあるのか、全体にやや落ち着いた色彩の編曲になっています。

第2部の頭に「II.」と付けて二つに分割し、また序奏や推移を追加して、第1部の終わりもしくは第2部の終わりで演奏を打ち切れるようにしたとのこと。S.723a, b, cの3つの稿があり、違いがあるのは後半だけだそうです。新しく "Tristia"(悲しみ)との題名が記されたのは第3稿からですが、題名をどう表記しているかに関わらず稿を明記している録音はほとんどなく、楽譜(Hardie pressから出版)を持っているわけでも録音を詳しく聴き比べた*7わけではないものの、根本的な変更はないように聴こえます*8

*1:青いともいう

*2:リストの個人的な事情や標題からの読解に立ち入る気はありませんが、引用した文章がすべて湖畔での思索を綴ったものというのは少し気になるところです。ちなみに『チャイルド・ハロルドの巡礼』のほうは嵐の夜の心理を綴ったもので、前曲「嵐」の引用箇所にすぐ続く文章です。

*3:初版ではこれがなく、チャイコフスキーの「悲愴」第3楽章のような終わり方をします。

*4:すでに何度か触れているケネス・ハミルトンのソナタ本から。

*5:ただしピアノ三重奏版では似たものが出てきます。

*6:あとはホロヴィッツヴォロドスが手を入れたバージョンもありました。ヴォロドスの改変はさすがに趣味悪く感じますが、ホロヴィッツの改変はくどくなりかねない後半をテンポよく聴かせる方向で、それなりに応用範囲があるように思います。

*7:ハワードさんは仲間と全バージョンを一枚に録音しているようです。

*8:ドイツ語ですが、発見を報告するWolfgang Marggrafの論文が登録制で見られます。 https://www.jstor.org/stable/902428