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『音楽の十字街に立つ』補遺:サン=サーンスとフランク

quasifaust.hatenablog.com

前の記事の注釈が膨らんでしまったので分割。

国立国会図書館オンライン | National Diet Library Online - 音楽の十字街に立つ

『音楽の十字街に立つ』の約三分の一を占める「ヴァンサン・ダンデイの觀念」は、ダンディの大部『作曲法講義』に対する1919年に書かれた論評です。大筋では高く評価、ただし細部は大いに不満といった趣で、その論評は現在の目から見てもうなずける点の多いものです。そして終盤、ダンディの音楽史の認識に意見を述べる流れのなかで、かなりの分量を割いて、フランク(とリスト)への評価がつづられています。

ダンディのフランク崇拝をたしなめる論調ではありますが、ただし全面的な否定とはほど遠く、世間の評判が低い時期から自分がフランクを支持していたことや、パリ音楽院のオルガン科教授の席をフランクに譲ったエピソードから始まる(このあたり、サン=サーンスの大人気なさがにじみ出ているとも言えますが...)分析は、フランクの音楽の価値をしぶしぶながら認める部分も少なくありません。「私たちは,それに聽き入る場合(...)歡喜を自覺するのです」と書きながらもモーツァルトベートーヴェンに及ばないと評する段(63-64頁)は、裏を返せばそれだけの名前を持ってこなければフランクを上回れないとも読めるでしょう。

ただ、「前奏曲、コラールとフーガ」を評する段(62頁)になるとはからずも毒舌が冴えてしまい、しかもその文章は『フランス・ピアノ音楽』でアルフレッド・コルトーが引用したこともあってそれなりに広まってしまっているようではあります。

いちおう文脈を説明すると、『作曲法講義』のフーガについて述べる章でダンディはサン=サーンスにそれなりの扱いを与えながらも、「BeethovenとFranckの表情的手法と言うよりも、Mendelssohnや近代独逸諸家の便宜的な冷ややかな態度である」(池内友次郎訳、第2 上巻 96頁)と切り捨てています。「冷たい」というのはサン=サーンスが批判される際の常套句です。

そのすこし後でダンディは「前奏曲、...」を引き合いに「この不朽の作品、monumentum ære perenniusは、あらゆる理論にもまして、数世紀を経た尊重すべきFugueを現在なお期待し得るし、また、期待しなければならないことを証明する」(同、96頁から改変*1)と最上級の表現で称えているのに対して、いきすぎではないかとサン=サーンスが発言しているという流れです。ただ、筆が滑ったにしても「コラールはコラールでなく...」のフレーズのキャッチーさ、頑迷さを表すエピソードとしての語りやすさはいかんともしがたいところですが。

あとに出てくる、フランクのカノンは同度かオクターヴだから大したことがないという難癖*2も、「多数の作品でCanonが驚くほど巧妙に利用されている(...)どの作品に於ても、Canon風模擬に充てられた旋律線が、その理由で、不整な或は無理な形で現れることはない。反対に、Canonは、転調に於て単純自然であり、自然に発生し、しかも、価値を増大せしめている」(同、95頁)とダンディが絶賛していることへの反応でしょう。

いずれにせよ、サン=サーンスからフランクへの態度は、ワグネリズムに対するものと同じように、彼にとって「過剰」評価と思えたものへの非難にとどまり、対立といった言葉で表せるものからは離れているように思えます。

 

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サン=サーンスとフランクの距離感についてはこういった記事もあります。

*1:池内訳は「この不朽の作品形式」としていますが、原文(Cours de composition musicale .. : Indy, Vincent d', 1851-1931 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive)は "cette œuvre impérissable" (p. 99) で、前文で「前奏曲、...」に触れたのを受けているとサン=サーンスは読んだのでしょう。

*2:同度やオクターヴのカノンは和声の変化がつけにくくて難しい、という話を聞いたことがありますが。