autour de 30 ans.

勉強したことを書きます

Parsifal ohne Worte - 1

ワーグナーの音楽劇からの抜粋*1というのはシンフォニー・オーケストラの大事なレパートリーになっているわけですが、どれだけの部位を切り出すのが可能か・どれだけ切り出すのが一般的かというのは作品によってわりと違いがあります。

その中で、最後の『パルジファル』は一つ前の『神々の黄昏』と並んで切り出せる部位が最も多い部類だろうと思います。一番演奏機会が多いのは「第一幕の前奏曲」と「聖金曜日の奇跡」の組み合わせ、あるいはどちらか単体でしょうが、他の曲も取り上げてさらに規模を大きくすることは珍しくないうえに、その場合、”決定版”と呼ぶべきバージョンが全く存在しない状況です*2

どのようなことになっているか整理するため、個別の場面について出版譜を参照しながら見たあと、大規模抜粋の各例のことを考えようと思います。

第一幕の前奏曲

作品の冒頭、「聖餐の動機」「聖杯の動機」「信仰の動機」を基調にした神々しい感触の前奏曲です。これについては、演奏会で取り上げるにあたって特段問題になるような点はありません。普通に演奏すると属七の和音で終わってしまうので、譜面に指定されている*3、主和音で終わる演奏会用のエンディングが場合によっては追加されるくらいです。とはいえ、他の場面を取り上げながらこのエンディングを使っているのは場面ごとに終止させる方針のボールト/LSO版ぐらいでしょうか。

全曲に先立って、初演と同年の1882年末ごろに単独の楽譜が出版されています*4

第一幕の場面転換の音楽(と終景)

第一幕後半の間奏曲、「歩みの動機」を中心にした荘重な行進曲です。音楽の区切りは練習番号[84]、イ長調のLangsam und feierlichから始まりますが、前後を付けて抜粋するときにはなぜか[85]の「聖杯の動機」から始まることが多いようです。

イ長調で始まった音楽は、グルネマンツの "Vom Bade kehrt der König heim..." という語りが続くのと並行して、ハ長調変ホ長調→(ロ長調→嬰へ長調→)ホ長調ト長調変ロ長調変ニ長調と、三度関係が中心の転調を果てしなく繰り返していきます。その度に視界が切り替わる気分になるのですが、「歩みの動機」も「聖杯の動機」も調性感は堅固なので、音楽の印象はかなり安定しています。

グルネマンツの語りが終わると[87]あたりからいよいよ「場面転換の音楽」本体、音楽はがらっと半音階的になり、金管の強奏が加わって音色のコントラストも増します。いかにもワーグナーらしいこの場面は「聖餐の動機」の強奏二回を経て、[92]あたりでハ長調に解決。鐘が鳴って「歩みの動機」による行進曲が始まります。

この後も三和音に解決するタイミングはいくつもあるのですが([93]、[97]、[101]など)、だいたいはこのあたりで切るのが一般的なように見えます。これ以降は合唱が入ってくるのを置き換える必要があるのと、前半と同じ素材と言ってしまえばそうなので、単独で取り上げるならともかく(三部形式っぽくまとまります)、前後に音楽が続くことを考えると冗長という判断でしょう。

1883年に出版された楽譜*5は「場面転換の音楽と終景」 "Verwandlungsmusik und Schluss-Scene" というタイトルで、上記の部分から第一幕の最後までを、独唱や合唱のパートも残して全曲スコアからそのままリプリントしたものになります。

それでは使いにくいということなのか、後になってオーケストラ単独のための楽譜も出版されています*6。編成も二管に縮小され、ティンパニが二台しかない場合や鐘が用意できない場合のための注記も付いている親切な楽譜です。また、第一幕の最後までをカバーしているのは同じですが、ティトゥレルの登場([101]5小節目)からアンフォルタスの語り(聖杯が登場するところのチェロのレチタティーヴォ直前、102+6まで)、ラストのグルネマンツとパルジファルのやりとり([126]…[128]あたり)、がカットされています。結果として、全体の印象としては円満な、落ちついた管弦楽ピースに聴こえます。

しかし気になるのがこの楽譜、編曲者のクレジットがありません*7。ということはワーグナー本人の編曲ということになるのかもしれませんが、編成のことや、1883年に亡くなったワーグナーの編曲がこのタイミングで出るか、と考えると検討の余地はあるように思えます*8

なお1896年には、シリル・キストラーなる人が「鐘と騎士の場面」というタイトルで二管オケ単独のための編曲を作っています*9。「パルジファルの動機による」"Gralsrittermarsch nach Motiven aus Parsifal" とわざわざ書かれている通り、第三幕の楽想も使ってかなり自由に再構築した編曲で、いわゆる抜粋とは別物と考えるべきでしょう。

第二幕の前奏曲、花の乙女たち

第二幕の冒頭、クリングゾルとクンドリの動機による前奏曲はごく短いもので、単独で取り上げることはまずありません。他の幕の場面と組み合わせて間奏曲的に使うか、同じ幕の「花の乙女たち」の場面と組み合わせることになるでしょう。[132]で歌が入ってくる前後にゲネラルパウゼがいくつかあるので切り上げるのは容易です。

クリングゾルとクンドリの対話を飛ばして「花の乙女たち」の場面は、パルジファルが現れ([153])、乙女たちが賑やかに反応するくだりを挟んで、[161]からの「愛撫の動機」による三拍子のワルツが本番。後半は「諍いの動機」で軽快な動きになり、[171]で「予言の動機」が現れてクンドリの語りに繋がっていきます。荘重な『パルジファル』のなかで一種の息抜きになる、やわらかい音楽です。オーケストラだけだとやや寂しくなってしまうので、多数に分割されて優美な線を描く声楽パートを多少組み込むことになるでしょう。

この部分は、エミル・シュタインバッハ編のオーケストラ編曲が出版されています*10

この編曲では「前奏曲」は短く、クンドリの動機が現れる前の中低弦のざわめきから、パルジファルが現れる直前の同種の音型に直接飛びます。その後は細かいカットはありながら原曲通りに進み、終わり近くでワルツの冒頭([160]+5)に戻って三部形式としてまとめたあと、独自のコーダで終わります。

ごく手堅く、演奏される価値はある編曲だと思いますが、少なくとも現在ではほぼ取り上げられることはないわけで、一曲の中においてもレパートリーの淘汰というのはあるのだと思うと興味深いものがあります。

第三幕の前奏曲

第三幕の前奏曲も、やはり単独での演奏はまずないでしょう。長さはそれなりにあるのですが、既出の動機はどれも歪んで現れ、一貫して半音階的で不安定。うつろい続ける息の長い音楽がワーグナーの大きな魅力とはいえ、それが今ほどの人気を博しているのはここぞという所での解放感があるからで、安定した響きの部分を後に持ってこないとどうにも取り上げにくいところです。

後になっても第二幕冒頭のようなゲネラルパウゼはないので、[217]でグルネマンツの語りが入る前後で切り上げるのですが演奏によってわりと違いがあります。

聖金曜日の奇跡

前述の「ここぞという所での解放感」の最たるもの、第三幕冒頭からのフラストレーション、あるいは全曲を通しての緊張が一気に取り除かれる全曲のハイライトです。ある意味、『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」に準ずる位置にあるかもしれません。単独あるいは第一幕の前奏曲と組み合わせて演奏されることは珍しくなく、実際、前奏曲の次に単独でオーケストラ用の楽譜が出版されています*11

この譜面にも編曲者のクレジットはなく、ワーグナーの編曲と考えることになります(出版は一応ワーグナーの生前です)。ティンパニのFis音に導かれた[252]、パルジファルの動機によるロ長調のファンファーレでこの場面は幕を開けます。まばゆい「聖杯の動機」で一段落したあとは「花咲く野原の動機」(とでも訳すのでしょうか? Blumenaue-Motiv)が中心となって清冽な音楽が進み、後半はニ長調になって、これまたオリジナルのコーダで締めくくります。

出版譜には細かいカットがあって、冒頭のファンファーレのところ、劇ではフレーズの切れ目でグルネマンツが一言ずつ発するのですがそれをカットしたので間を縮めているのと、ロ長調からニ長調へ移行するときの不安定な響きの部分([258])もカットされて、場面全体の明るい印象を強めています。どの抜粋も、基本的にはこのカットを踏襲しているようです。ワーグナー著作権が切れた後の1914年にはワウテル・フッチェンロイテル編*12の楽譜がブライトコフプから出ていますが、楽器法やオプションパートの設定の違いはあるものの、やはり構成はこれに従っています。

第三幕の場面転換の音楽

ふたたび鐘が鳴り響く、第一幕の場面転換の音楽と対を成す葬送行進曲です。重苦しく、少ない動機の繰り返しでいささか変化を欠くからか*13、これも単独ではまず演奏されません。

[267]、鐘とともに低音にオスティナート動機が出現するあたりが区切りになりますが、他の場面と組み合わせて演奏する場合は、直前の「聖金曜日の奇跡」からそのまま繋げることが多いようです。変ロ短調で進んだそのまま[271]で合唱が入って葬送の場面が始まりますが、第一幕のほうと違ってこちらはあまり長くやることはなく、だいたいどの演奏も合唱が入ってくるあたりで切り上げるようです。

第三幕終結

パルジファル』の最後、完全に状況が明転してからの主な区切りを、練習番号ごとを基準にまとめるとこうなります。
[285] イ長調 アンフォルタスの動機
[286] * 予言の動機
[287] ニ長調 パルジファルの動機
[288] * 聖槍の動機
[290] 変イ長調 聖杯の動機、聖餐の動機、信仰の動機
[292] * 予言の動機、聖餐の動機
[293] 変イ長調 信仰の動機、聖杯の動機、聖餐の動機

聴いた印象としても、特に[287]と[290]が重要な区切りになります。

単独の場面としてのこの部分は初め、第一幕の前奏曲への終結部として出版されています*14。練習番号290から最後までを演奏する形です。同じ変イ長調、使われている動機も共通しており、もし、第一幕の前奏曲への演奏会用終結がすでに制作されていなかったなら、この場面をくっつける演奏が一般的になっていたかもしれません。ただ実際には、全曲からの抜粋以外でこの場面を演奏した例は知りません。

さてそれをある程度の長さにつなぐとなるとどういう形になるでしょうか。次の記事でいくつか例を見ていくことにします。

quasifaust.hatenablog.com

*1:一部の場面を切り出す水平的な意味でも、管弦楽のみを切り出す垂直的な意味でも。

*2:思えば、オペラの管弦楽抜粋というものはがっちりパッケージされた出版譜がないかぎりだいたいこういうなる傾向があるようです(cf. 組曲が別れてしまった『カルメン』)。ひとまず決定版のあるリムスキー=コルサコフR.シュトラウスあたりとはわけが違うようです。もっとも、中・大規模の管弦楽抜粋が可能なのはバレエのあるフランス系の作品か、ワーグナー以降の作品に限られるのですが。『指環』抜粋の多様な、というか混沌とした世界についてはこのサイト(http://www001.upp.so-net.ne.jp/horn/ringindex.html)を参照のこと。今回の『パルジファル』紹介はここを手本にしています。

*3:全集版にも収録されています。

*4:http://www.hofmeister.rhul.ac.uk/2008/content/monatshefte/1882_12.html#hofm_1882_12_0377_15

*5:http://www.hofmeister.rhul.ac.uk/2008/content/monatshefte/1883_02.html#hofm_1883_02_0038_10

*6:http://www.hofmeister.rhul.ac.uk/2008/content/monatshefte/1886_01.html#hofm_1886_01_0002_14

*7:有名なところでは「ヴァルキューレの騎行」も、編成の変更や前後の入れ替えが行われているけれどクレジットなしです。

*8:この辺の研究は見つけられませんでした。全集の成立事情の巻を読めば分かるのかもしれませんが。他の編曲者によるものも含め、演奏会用編曲の成立の研究というのはあってもよさそうです。

*9:http://www.hofmeister.rhul.ac.uk/2008/content/monatshefte/1896_04.html#hofm_1896_04_0155_19。実際の楽譜がここ(https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/24812805-07a5-4ffb-894a-a65ef9dc7282-0.1?search-type=singleFilter&search-text=kistler&doctype=printedMusic)から見られます。ちなみに編成に鐘は入っていません。

*10: http://www.hofmeister.rhul.ac.uk/2008/content/monatshefte/1887_01.html#hofm_1887_01_0003_12。ここ(https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/c13fdda1-c2f0-4f41-9ed8-babd7f7446cd-0.1?search-type=singleFilter&search-text=emil+steinbach&doctype=printedMusic)で閲覧可能。

*11:http://www.hofmeister.rhul.ac.uk/2008/content/monatshefte/1883_01.html#hofm_1883_01_0002_02

*12:前後して「ヴァルキューレの騎行」「森のささやき」「ジークフリートの葬送行進曲」、『マイスタージンガー』の「徒弟たちの踊り」、などを編曲していて、どれも構成は既存のSchott版を踏襲しています。

*13:光と生気に満ちた前の場面から葬礼の場面への転換には多少の力技が必要というのは分かります。

*14:http://www.hofmeister.rhul.ac.uk/2008/content/monatshefte/1890_08.html#hofm_1890_08_0308_08。同じ年に「第三幕の終結部だけ」という楽譜も出ていますが(http://www.hofmeister.rhul.ac.uk/2008/content/monatshefte/1890_11.html#hofm_1890_11_0467_04)、これはどういう用途を想定していたのでしょうか。