エルガーの交響曲第2番は、彼の創作の頂点の一つをなす作品と言っていいでしょう。その作曲についての各段階とその周辺の各種事象を、Jerrold Northrop Moore による伝記 Edward Elgar: A Creative Life (Oxford University Press, 1984) を中心に、できるかぎり拾ってみます。特記がなければエルガー自身の行動を、曲名について特記がなければ交響曲第2番を指しています。
いくつか思ったこと。
- 断片的な楽想を折にふれスケッチして、タイミングが来ると一気にまとめあげていく(なのでおしなべて構想期間が長く、本格的な作曲期間はそこまで長くない)作曲法のせいで、エルガー作品の作曲時期は簡潔に言うのが困難になりがちに思います。
- さらに「今後の作品についての噂を煽るのに抵抗がない」*1エルガーの性向と、周囲からの期待が合わさって流れた情報が混乱を増幅します。
- (第1番でなく)第2番の解説でよく「ゴードン」交響曲が言及されるのは、第2番の「英雄」的ないでたちが理由でしょうが*2、この間のさんざんな紆余曲折を考えると、どれだけ構想として共通のものが残っているのか。
- Mooreの伝記はきわめて詳細でさまざまなことを学べますが、時系列順に従ったところとトピックでまとめたところ、伝記的事項と作品の分析が複雑に混在していて、特定のトピックについて理解するのに一手間かかる印象。Michael Kennedy の伝記が読みやすさでは勝っていると思います。
1898年
10月 チャールズ・ジョージ・ゴードン将軍を題材にした交響曲を構想する。翌年9月の音楽祭で初演する計画。(pp. 246-247)
1899年
11月 アウグスト・イェーガー(『エニグマ変奏曲』の「ニムロッド」)から「ゴードン」交響曲の進捗を訊かれ、「主題を一つ書いた」と返信する。(pp. 294-295)
1900年
11月 指揮者アルフレッド・ロードウォルド(のちの『威風堂々』第1番初演者)と親しくなり、交響曲の計画を打ち明ける。ロードウォルドは支援を約束。(p. 338)
1901年
1月20日 妻アリスが「これ以上高貴な音楽はないだろう」「交響曲」に言及する。のちの『威風堂々』第1番トリオの旋律か? (pp. 340, 343)
10月25日 指揮者ハンス・リヒターへの手紙で「わたしが書いている交響曲」に言及、リヒターへの献呈の計画にも触れる。(p. 358)
10月26日 イェーガーから、ヘンリー・ウッド(指揮者、「プロムス」の創設者)が交響曲の演奏を望んでいると知らされる。*3
1902年
11月 1904年10月のリーズ音楽祭で初演する新作を依頼され、交響曲の作曲をほのめかす。 (p. 376)
1903年
3月 リーズ音楽祭との交渉進む。交響曲の作曲を承諾。 (p. 398)
10月11日 リヒターへの手紙で「ハンス・リヒターに捧げる変ホ長調の交響曲」に言及。*4
10月 交響曲第1番が完成間近との噂が流れる。リーズ音楽祭の交響曲初演計画破棄。(p. 420)
10月? 第4楽章[155]の素材がスケッチされる。(pp. 420-421)
11月9日 アルフレッド・ロードウォルド死去。(p. 423)
11月28日 翌年3月のエルガー音楽祭に関して、「リーズ音楽祭のためと公表されていた交響曲」が初演されると誤報が流れる。 (p. 445)
12月11日-翌1月30日 イタリアのアラッシオ滞在。(pp. 424, 431)
12月31日 ローザ・バーリー Rosa Burley に(のちの)第4楽章の一部を聴かせる。(pp. 425, 595-596, 609)
1904年
1月 交響曲がドイツのエッセンで初演されるという噂が流れる。*5
5月? (のちの)第2楽章の素材の一部([74])がスケッチされる。『コケイン』第2番の構想(実現せず)と同時期。*6
1905年
2月13日 リヒターに交響曲の作曲が進んでいないことを報告。(p. 455)
10月? 「ハンスその人」と記された主題がスケッチされる。(p. 470)
1906年
? 第2楽章冒頭の原型がスケッチされる。*7
1907年
6月27日 (のちの)交響曲第1番の循環主題をスケッチ。(pp. 514-515)
12月3日 オラトリオ『最後の審判』の計画を放棄したとノヴェロ社のアルフレッド・リトルトン Alfred Littleton に伝える。交響曲第1番のショートスコア作成開始。(p. 520)
1908年
9月25日 交響曲第1番完成。(p, 542)
12月3日 交響曲第1番初演。(pp. 544-546)
1909年
4月-5月 イタリア旅行、フィレンツェ近郊の別荘カレッジ Careggi に滞在。第1楽章 [5] の動機をスケッチ? (pp. 551, 595)
5月18日 アウグスト・イェーガー死去。(pp. 553-554)
6月 イタリア旅行の最後にヴェネツィアを訪れる。(p. 554)
11月11日 ロンドン・フィルハーモニック協会からヴァイオリン協奏曲の作曲を依頼される。(p. 557)
12月21日 ヘンリー・ウッドの妻オルガ死去。(p. 561)
12月末 ベイジル・ネヴィンソン(『エニグマ変奏曲』の「B.E.N」)死去。(p. 563)
1910年
4月3日-5日 ティンタジェルにアリス・スチュワート=ウォートリーを訪ねる。(p. 573)
4月11日 ドーラ・ペニー(『エニグマ変奏曲』の「ドラベッラ」)に(のちの)第2楽章を聴かせる。同日、リヒャルト・シュトラウスの歓迎会に出席。主催者のエドガー・スパイヤー Edgar Speyer(社会事業で知られた銀行家)から翌年5月初演の新作を依頼される? (pp. 573-574)
4月13日 エドガー卿(スパイヤー)から小切手入りの手紙を受け取る。(p. 574)
4月中旬 小切手は一度返送したが、エドガー卿との交渉の結果、交響曲の作曲を承諾したと思われる。(p. 574)
4月22日 友人クロード・フィリップス Claude Phillips に協奏曲と交響曲第2番の一部を聴かせる。(p. 574)
5月6日 エドワード7世危篤の報が流れる。深夜に崩御。(p. 579)
5月7日? ハウ伯爵 Richard, 4th Earl Howe に葬送行進曲の提供を申し出る手紙を書くが、王の葬儀までに練習する時間がないとして断られる。交響曲の第2楽章か? (p. 580)
8月初め ヴァイオリン協奏曲完成。(p. 587)
10月初め 友人のチャールズ・サンフォード・テリー Charles Sanford Terry に第1~第3楽章のそれぞれ冒頭部分を聴かせる。第2楽章はサンマルコ聖堂の内装、第3楽章は広場の印象と説明。(p. 595)
11月10日 ヴァイオリン協奏曲初演。おおむね成功を収める。(pp. 591-594)
11月末 本格的に交響曲の作業開始。日付スタンプを購入し、スケッチに日付が詳しく記録されるようになる。(p. 595)
11月25-26日 第1楽章 [55] 前後の素材、第4楽章コーダをスケッチ。(p. 595)
11月27日 第1楽章 [28] の原型をスケッチ。「交響曲第2番の最初のスケッチ、幽霊」と書き込み。*8
12月3-19日 総選挙が行われる。11月30日-12月7日はロンドンで暮らす。(pp. 596-597)
12月13日 第2楽章 [69] の素材がスケッチされる。(p. 597)
12月14日 ドイツのクレーフェルトを訪れる。クリスマスまでに帰宅。(p. 598)
12月29日 第2楽章 [74] を作曲。(p. 598) 第3楽章 [106] をスケッチ? *9
12月30日 ヴァイオリン協奏曲に使われなかった素材を第3楽章の構想に組み入れる。[100] *10
12月31日 リヴァプールを訪れる。
1911年
1月4-5日 チャールド・サンフォード・テリーにスケッチを演奏し、作品について語る。(p. 601)
1月5-6日 第1楽章序盤をスケッチ。(p. 601)
1月8日 体調を崩して「午後までベッドにいた」。(p. 602)
1月10日 アルフレッド・リトルトンに手紙で「仕事が完全に遅れていて、交響曲第2番には重大な不安を抱いている」と語る。(p. 602)
1月12日 第1楽章 [15] を作曲。(p. 602)
1月14日 第1楽章 [20] を作曲。(p. 602)
1月16日 ロンドンで演奏会。その後一週間はロンドンで作曲し、家族は引っ越し先を探した。(p. 603)
1月21日 第1楽章展開部中盤([30]?)を作曲。(p. 603)
1月28日 第1楽章完成。(p. 604)
1月29日 第1楽章のスコアをノヴェロ社に送る。(p. 604)
1月30日 第2楽章作曲開始。(p. 604)*11
2月6日 第2楽章完成。(p. 606) 第3楽章 [109] の楽想をスケッチ*12。
2月7日 第2楽章のスコアをノヴェロ社に送る。(p. 606)
2月9日 第3楽章作曲開始。(p. 607) スケッチは少ないかわり、事前の「計画」に従って進められた。*13
2月16日 第3楽章完成。(p. 608)
2月17日 ロンドン交響楽団の指揮者就任を受諾。(p. 609)
2月28日 第4楽章完成。(p. 611)
3月中旬-5月9日 アメリカへの旅行。(pp. 612-614)
3月24日 アリス・スチュワート=ウォートリーへの手紙で「あなたの交響曲」と言及。*14
5月1日? アーネスト・ニューマン Ernest Newman による分析記事が出版される*15。
5月17日 初演の練習開始。翌日から報道される。(p. 614)
5月22日 ロンドン音楽祭開幕。22日にヘンリー・ウッド指揮で『ジェロンティアスの夢』、23日にウッド指揮、クライスラー独奏でヴァイオリン協奏曲演奏。(p. 615)
5月24日 朝に最終リハーサル、夜の演奏会で初演。(pp. 614-617)
*1:Michael De-La-Noy, Elgar, the Man. (Allen Lane, 1983) p. 97
*2:重要な楽想のスケッチが早くから存在していたことにも触れられますが、第1番についても事情はそれほど変わらないでしょう。
*3:Michael Kennedy, Portrait of Elgar (Third ed.) (Oxford University Press, 1987) p. 214.
*4:Kennedy (1987). pp. 214-215.
*5:Kennedy (1987). p. 214
*6:Kennedy (1987). p. 214
*7:Christopher John Kent, Edward Elgar: a composer at work; a study of his creative processes as seen through his sketches and proof corrections. (Doctoral Dissertation. 1978, King's College London) p. 186.
*8:Kent (1978). p. 184
*9:Kent (1978). p. 191
*10:Kent (1978). p. 191
*11:第2楽章の成立については日本語論文もあります。道廣真衣「E. エルガーの交響曲第2 番op.63における作曲過程: 第2 楽章を中心に」(『人文論究』63巻1号、関西学院大学、2013)
*12:"windflower" と付記。 Kent (1978). p. 189
*13:Kent (1978). pp. 188-189
*14:Kent (1978). p. 180.
*15:
Tom Kelly "Redeeming the Second Symphony". The Elgar Society Journal, Vol. 18, No. 1 (April 2013). p. 18.




