autour de 30 ans.

勉強したことを書きます

「私はピアノのパガニーニになる」

 という言葉の元ネタについて。

歴史に名を遺すヴァイオリンのヴィルトゥオーゾパガニーニは前半生では主にイタリアで活動をしていましたが、1831年3月9日に満を持してパリへデビューし、大旋風を巻き起こします(ウォーカーによれば、この時リストはジュネーヴに滞在していたと思われます。ハワードは31年4月にリストがパガニーニを聴いたと書いていますね)。そして一年後の1832年4月、二度目のパリ訪問。4月20日の演奏会には当時20歳のリストも客席にいました(リストの備忘録に「パガニーニの演奏会」の記載あり)。5月に入って、リストは弟子のピエール・ウォルフ(Pierre Wolff)に手紙を送ります。

アラン・ウォーカーのリスト伝から拙訳で引用します。「大作曲家・人と作品」シリーズのリストの巻や、国会図書館のデジタルライブラリーで公開されているユリウス・カップのリスト伝でも触れられています。

パリ、1832年5月2日

丸二週間の間、僕の頭と指は二つの呪われた魂のように働き続けていました。ホーマー、聖書、プラトー、ロック、バイロンユゴー、ラマルティーヌ、シャトーブリアンベートーヴェン、バッハ、フンメル、ウェーバーたちの中に僕はいます。僕は彼らを学び、思索し、激しい興奮のなかでむさぼりました。加えて、四時間から五時間は練習をしています(三度、六度、オクターヴトレモロ、連打音、カデンツァ、等々)。ああ! 僕の気が触れなければ、君は芸術家になった僕と出会うことでしょう。そう、芸術家に……この時代が求めているような。

「この私も画家だ!」ミケランジェロが初めて絵画の傑作を目にしたとき、こう叫んだといいます。君の友は、矮小で卑しい身ではありますが、パガニーニの最新の演奏を聴いてからというもの、この偉人の言葉を繰り返さずにはいられません。ルネ(René)、何という人物、何というヴァイオリン、何という芸術家! 神よ! あの四本の弦に、何という苦しみ、何という苦悩、何という苦痛があることか! 

彼の得意技をいくつか記しておきます:

 

[パッセージが楽譜に書かれている。四重音、二重音のトレモロ、高音の半音階的パッセージ、スピッカートのアルペジオ。和声が減七や七の和音ばかりなのが興味深い]

 

彼の表現、彼のフレージングの作法は、その魂そのものです!

 

これを要約すると、リストはピアノにおけるパガニーニたらんと決意し練習に打ち込んだ、となりますね。これ以降の作品にはパガニーニがヴァイオリンでなしとげたのと同様の、演奏技巧の極限に挑むような試みがみられる、というのもよく聞く話です。ただ「ピアノのパガニーニになる」という発言、については前述した三つの伝記からは見つかりませんでした。

ただついでに触れておくと。1853年にリストは自分の人生を語った文章を書いているのですが、それによると、ヴィルトゥオーゾ群雄割拠だった1830年代パリでも最大(級)の存在となった時期のリストにヴィルトゥオーゾの代名詞たる人物の名前が冠せられて「ピアノのパガニーニ」と呼ばれることはあったらしく*1、リストも満更でもなかったようです。どうもこの辺の話が色々混ざって、「私はピアノのパガニーニになる!」という「名言」が生まれたのではないかと思います。

早い段階だと、1966年に音楽之友社から出た『標準音楽辞典』のリストの項目(属啓成執筆)に、「ピアノのパガニーニになる」と叫んだ、という文章があるので、このへんが出所なのかなとは思うのですがよくわかりません*2

 

パガニーニに出会う以前のリストの状況についてもまとめておきます。13歳でパリにデビューしたリストはピアニストとして活動しながら、母親を養うためにピアノ教師の仕事をしていたのですが、生徒の一人だったサン=クリック伯爵令嬢カロリーヌと恋に落ちます(当然ながら、後半生の伴侶だったカロリーヌ・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人とは別人)。しかし1828年、二人を見守っていたカロリーヌの母親が亡くなったことで、身分違いを理由に伯爵から仲を裂かれ、リストはピアノ教師を辞めさせられます。初恋の破局は17歳のリストにかなり堪えたようで、体を壊したリストは1年近く演奏会を開かず、誤って死亡記事が出るほどの状況でした。

しかしリストは、古今の名著の読書や、1830年七月革命や、同年12月のベルリオーズ幻想交響曲』初演に接したことで活力を取り戻し、1831年には新しい恋人を作っています(それでも、不幸な結婚をしたカロリーネとの友情は続いたようで、1860年にリストが書いた「遺書」では、「指輪にはめ込まれたお守り」を遺すように指示しています)。そこに1832年パガニーニ・ショックが加わり、芸術家として大きく成長したリストの、20代/1830年代の快進撃が始まるわけです。

 

その結果として。最上級の難曲ということで頻繁に名前が出てくる、パガニーニをもとにした一連の作品、「パガニーニの『鐘』によるブラヴーラ風大幻想曲」 S.420(1832)や「パガニーニによる超絶技巧練習曲」S.140(1838)。それと「幻想交響曲」の編曲S.470(1833)もでしょうか、は当時のピアノ技術の最先端を行っていて、1837年のタールベルクとの「象牙の決闘」でも分かるとおり、リストは人気実力ともにトップクラスのピアニストになっています。

なっているのですが、この時期は同時に、3つの協奏曲の初稿(1835ca. 1839)や大作「深き淵より」S.121a(1835)、「ダンテを読んで」の3つの初期稿S.158a-c(1839)、超絶技巧練習曲と大枠が変わらない「12の大練習曲」S.137(1837)、あとそうだ、オペラファンタジーで屈指の交響的な構造を持っている「『ユグノー教徒』の回想」初稿S.412/1(1836)だとか、ヴァイマルで「大作曲家」と化すリストがすでに窺えるような世界が続々と生まれている時期である――リストの変化はあらゆる面で並行的に起きていた、というのは確かめておきたいと思います。演奏技巧の追究がパガニーニの影響だとするなら、こちらはベルリオーズや、頻繁に共演していたショパンスケルツォ1番が1833年、バラード1番が1835年)からの刺激を見いだせるかもしれません。

まあ、作曲家が20代になったあたりから一般的に知られている「大作曲家」の顔を見せる、というのはごく標準的な成長といったところで、この辺りで起きたリストの変化をどれだけ外部からの影響に帰するべきかというのがまた微妙な話にはなるのですが。

*1:コントラバスのボッテジーニ、フルートのブリチャルディ、クラリネットのカヴァリーニなど他の楽器でも「○○のパガニーニ」は量産されていたといいます。

*2:ちなみにインターネット上でいうと、2006年12月、ピティナピアノ曲事典とWikipediaへ同時にこの言葉が登場したのが伝播の元になったのではないかと思われます。