autour de 30 ans.

勉強したことを書きます

Corno inglese di basso

という楽器を、メンデルスゾーンが「管楽合奏のための序曲」Ouvertüre für Harmoniemusik Op.24 や、その前身となる「ノクトゥルノ」Nocturnoで指定しています。

名前だけ見るとイングリッシュホルン(アルトオーボエ)の関連楽器かという気にもなりますが、実際には円錐管を二つ折りにした形の金管楽器で、18世紀末にフランス人 Louis Alexandre Frichot によってイギリスで開発されたものだそうです。Russian Bassoonに似ている、という説明もされていて、English Bass Hornで検索すると画像が色々出てきます。

あまり言及される機会の少ない*1楽器ですが、メンデルスゾーンはこれを気に入っていたらしく、「ノクトゥルノ」を作曲した1924年に、姉のファニー宛の手紙ではっきりと絵を描いてこの楽器に言及し、賞賛しています。「夏の夜の夢」で使われるオフィクレイドも、ホグウッド校訂のベーレンライター版序文によれば、自筆譜では(イングリッシュ)バスホルンが指定されていたのが、ブライトコプフ・ウント・ヘルテルから出版される際にオフィクレイドに変更されたとのことです。

ここで考えなければならないのが、現在では入手ができないこの楽器のパートを何の楽器で代用するか*2という問題で、両者の校訂を担当しているホグウッドはどちらの序文でも実際の例を踏まえていくつかの策を挙げています。

曖昧な言及ですがまとめてみると、現在ではバスチューバがよく使われるが、ユーフォニアムもしくはバリトンホルン*3がよりふさわしく、ただしメンデルスゾーン存命当時の実践としてはオフィクレイドを好んだはずで、またファゴットでの代用もあり得る、という順で述べられています。

アメリ海兵隊バンドが「序曲」をベーレンライター版で演奏したときにはユーフォニアムを使用したらしく*4、他のバンドでは復元されたオフィクレイドでの演奏例もあるようです。

問題なのがコントラファゴットでの代用で、記譜=メンデルスゾーンの意図よりもオクターヴ下の音が響くため不可、と言及しています。特に管楽合奏曲であるこれらの場合、モーツァルトの「グラン・パルティータ」やドヴォルザークR.シュトラウスのセレナーデあたりからの類推でコントラファゴットを持ってくるのは自然で、そこを危惧したのでしょう。

局所的に面倒な問題を残している(イングリッシュ)バスホルンですが、当時でもさほどメジャーではなかったのか、出版譜でも指定されているのは管楽合奏作品に限られていて、後年にメンデルスゾーンはオフィクレイドやセルパン、さらに「芸術家たちに」An die Künstler Op.68ではチューバを指定するようになっていきます。

しかし、必ずしもメンデルスゾーンがこの楽器を諦めたとも言えないようです。交響曲第5番宗教改革」のベーレンライター版(ホグウッド校訂)は終楽章前のカット部分の復元でも話題になりましたが、序文を読んでいると、この曲の終楽章に含まれる「セルパン」のパートについてホグウッドは、蛇型のいわゆるセルパンではなく「イングリッシュバスホルンの使用を意図していたと思われる」と述べていました。

コントラファゴットでの代用に言及されていないのは譜面にContrafagotto e Serpente、「コントラファゴットセルパン」と明記されていて、実際にもチューバでの代用が定着しているからでしょうが、他の代用の可能性も探ったとして、メンデルスゾーンを演奏するオーケストラにユーフォニアムが座っている光景は一度見てみたいものです。

*1:ベートーヴェンの軍楽のための行進曲に"Bashorni"があるなど皆無ではないようですが。

*2:ただし「ノクトゥルノ」については、メンデルスゾーンが「10の管楽器のための」と呼んでいた記録が存在するようで、ホグウッドはこのパートがオプショナルな存在ではなかったかと示唆しています。

*3:ワーグナーチューバやテナーチューバはどうなんだ、という気がしますが何倍か増しで収拾がつかなくなるのでやめます。フレンチホルンの低音とかバスクラリネットとかはどうなんでしょう。

*4:https://www.marineband.marines.mil/Audio-Resources/Educational-Series/Originals/ 、解説参照。

『音楽の十字街に立つ』補遺:サン=サーンスとフランク

quasifaust.hatenablog.com

前の記事の注釈が膨らんでしまったので分割。

国立国会図書館オンライン | National Diet Library Online - 音楽の十字街に立つ

『音楽の十字街に立つ』の約三分の一を占める「ヴァンサン・ダンデイの觀念」は、ダンディの大部『作曲法講義』に対する1919年に書かれた論評です。大筋では高く評価、ただし細部は大いに不満といった趣で、その論評は現在の目から見てもうなずける点の多いものです。そして終盤、ダンディの音楽史の認識に意見を述べる流れのなかで、かなりの分量を割いて、フランク(とリスト)への評価がつづられています。

ダンディのフランク崇拝をたしなめる論調ではありますが、ただし全面的な否定とはほど遠く、世間の評判が低い時期から自分がフランクを支持していたことや、パリ音楽院のオルガン科教授の席をフランクに譲ったエピソードから始まる(このあたり、サン=サーンスの大人気なさがにじみ出ているとも言えますが...)分析は、フランクの音楽の価値をしぶしぶながら認める部分も少なくありません。「私たちは,それに聽き入る場合(...)歡喜を自覺するのです」と書きながらもモーツァルトベートーヴェンに及ばないと評する段(63-64頁)は、裏を返せばそれだけの名前を持ってこなければフランクを上回れないとも読めるでしょう。

ただ、「前奏曲、コラールとフーガ」を評する段(62頁)になるとはからずも毒舌が冴えてしまい、しかもその文章は『フランス・ピアノ音楽』でアルフレッド・コルトーが引用したこともあってそれなりに広まってしまっているようではあります。

いちおう文脈を説明すると、『作曲法講義』のフーガについて述べる章でダンディはサン=サーンスにそれなりの扱いを与えながらも、「BeethovenとFranckの表情的手法と言うよりも、Mendelssohnや近代独逸諸家の便宜的な冷ややかな態度である」(池内友次郎訳、第2 上巻 96頁)と切り捨てています。「冷たい」というのはサン=サーンスが批判される際の常套句です。

そのすこし後でダンディは「前奏曲、...」を引き合いに「この不朽の作品、monumentum ære perenniusは、あらゆる理論にもまして、数世紀を経た尊重すべきFugueを現在なお期待し得るし、また、期待しなければならないことを証明する」(同、96頁から改変*1)と最上級の表現で称えているのに対して、いきすぎではないかとサン=サーンスが発言しているという流れです。ただ、筆が滑ったにしても「コラールはコラールでなく...」のフレーズのキャッチーさ、頑迷さを表すエピソードとしての語りやすさはいかんともしがたいところですが。

あとに出てくる、フランクのカノンは同度かオクターヴだから大したことがないという難癖*2も、「多数の作品でCanonが驚くほど巧妙に利用されている(...)どの作品に於ても、Canon風模擬に充てられた旋律線が、その理由で、不整な或は無理な形で現れることはない。反対に、Canonは、転調に於て単純自然であり、自然に発生し、しかも、価値を増大せしめている」(同、95頁)とダンディが絶賛していることへの反応でしょう。

いずれにせよ、サン=サーンスからフランクへの態度は、ワグネリズムに対するものと同じように、彼にとって「過剰」評価と思えたものへの非難にとどまり、対立といった言葉で表せるものからは離れているように思えます。

 

sibaccio.blogspot.com

サン=サーンスとフランクの距離感についてはこういった記事もあります。

*1:池内訳は「この不朽の作品形式」としていますが、原文(Cours de composition musicale .. : Indy, Vincent d', 1851-1931 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive)は "cette œuvre impérissable" (p. 99) で、前文で「前奏曲、...」に触れたのを受けているとサン=サーンスは読んだのでしょう。

*2:同度やオクターヴのカノンは和声の変化がつけにくくて難しい、という話を聞いたことがありますが。

サン=サーンス『音楽の十字街に立つ』

以前某所に書いたことの増補版。

戦前にも日本ではクラシック関係の音楽書の執筆・翻訳がかなりの数おこなわれていて、国会図書館のデジタルコレクションで読める本も多くあります。

国立国会図書館デジタルコレクション

なにしろたいていが情報も翻訳も古いので、そのまま勉強に使うには注意が必要だとは思いますが*1、それを心得ていれば、なかなか興味深いものも多いです。

サン=サーンスの『音楽の十字街に立つ』(馬場二郎訳、新潮社、大正14(1925)年)もその一つで、物書きとしても鳴らしたサンサーンスの唯一の邦訳書です(「文章」を収めたものとしてはフォーレとの書簡集も訳がありますが)。

国立国会図書館オンライン | National Diet Library Online - 音楽の十字街に立つ

内容は、書籍や自筆譜に関する詳細な分析(「ヴァンサン・ダンデイの觀念」「シォパンの原稿樂譜」)から作曲家論(「洋琴家フランツ・リスト」)、啓蒙的な文章(「ラモー論」「買ひ冠られた贋の傑作」)、回想録のたぐい(「サラサーテ」「樂劇『サムソンとダリーラァ』の起原」)、心あたたまるエッセイや旅行録(「動物の侶伴の觀察」「アメリカの印象」)と多彩で、サン=サーンスの思考や人となりが存分にうかがえるものです。貴重ながらそれなりに入手困難な本だったのがどこからでも無料で読めるわけで、いい時代です。

翻訳ですから当然もとになった本があるわけですが、訳者の前書きには「カミーユ・サン・サーンスの没した年ー即ち,一九二二年*2―に,パリイで出版された論文集」(3頁)とあるだけで題名は分からず、『音楽の十字街に立つ』という邦題*3に対応する本もありません。訳文自体はなかなかこなれたものですが、原文を見てみたいと感じるところも少なくないので少し困ったものです。

ですが推測するなら、1922年に英語で出版された "Outspoken Essays on Music" が翻訳ソースだと思われます*4。内容を見ると、収録されている文章は全く同じです。

archive.org

問題になるのは、"Outspoken ..." が「パリイで出版された論文集」の翻訳ではないかという可能性ですが、ここで参照したのはTimothy Flynn "Camille Saint-Saens: A Guide to Research" (Routledge, 2003) です。本人の文章を含めたサン=サーンス関係の文献目録・解題集で、"Outspoken ..." について調べると "a collection of the composer's essays in an authorized translation from previously published materials" と書かれていて、単一の原書の存在には触れていません(p. 107)。また、1922年に他のそれらしい著作がフランスで出版されたという言及も見当たりません。

調べてみると、本書に収録された文章(のいくつか)は1920年から1922年にアメリカの "Musical Times" 誌に掲載されています*5

JSTOR: Search Results

フランス語原文も元はそれぞればらばらに出版され、一部は本にまとめられていた中から抜粋したもので、なかには1919年に単独で出版されたばかりの "Les idées de m. Vincent d'Indy"(「ヴァンサン・ダンデイの觀念」)もあります。

断言するわけにはいきませんが、ここまでの情報を総合すると、1922年にフランスでも同内容の本が(追悼のタイミングで?)出版されたと考えるのは難しいように思います。Flynnが大きな見落としをしていたり、なんらかの理由でフランス語版の "Outspoken ..." の存在を無視しているのではない限りの話ですが。

 

ほかにも、英語版からの翻訳だという傍証を挙げることはできます。

巻頭約三分の一を占める「ヴァンサン・ダンデイの觀念」の終盤、ダンディが『作曲法講義』(Cours de composition musicale .. : Indy, Vincent d', 1851-1931 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive)のなかで師フランクをあまりに持ち上げすぎると文句を言うなかで、「前奏曲、コラールとフーガ」を「これは,たゞ,演奏が簡便で,而も,面白いと云ふ事の外には,何も有(も)たない小曲であるに過ぎません」と評しています(62頁)*6。ですがこれは、英語版の "a morceau anything but pleasant or convenient to play" (p. 47) の誤訳と思われます。原文は "morceau d'une exécution disgracieuse et incommode" (p. 39) で、馬場訳のように間違える余地はありませんし、事実、フランス語原文を(コルトーの引用を通して)参照した矢代秋雄(『最新名曲解説全集 独奏曲III』)や安川夫妻(『フランス・ピアノ音楽』1巻)の訳では問題なく訳されています。

もうひとつ、和声と旋律の関係について述べた部分で「唄曲(バラード)『愛人』("La Favorita")の中の『清浄なる天使』("Ange si pur")」(24頁)という表現があります。これはもちろん、ドニゼッティの「ラ・ファヴォリータ」のアリアの話をしているわけですが、英語版では the ballad "Ange si pur," of "La Favorita" (p. 18)となっているこの部分、原文は la Romance ≪Ange si pur≫ de la Favorite (p. 18) とされています。

ロマンス→バラードという変換を偶然日本語訳者と英語訳者がともにしていたのではない根拠として、「モーツアルトの『ドン・ジュァン』を論じたシャールル・グーノー」冒頭の「浪漫曲(ロマンス)」(211頁)は、英語 (p.158) フランス語 ("Charles Gounod et le Don Juan de Mozart" p.1) ともに "romance" になっていることを挙げておきます。

 

こんなまだるっこしい話を延々するまえに、訳者の馬場二郎氏の経歴が分かればいいような気もします。ただ馬場氏の経歴がよくわからない*7のが悩みどころで、訳著書のまえがきや雑誌に寄稿した記事を読むと、日本ビクターの関係者(社員?)としてクラシックの普及にたずさわっていたことと、奈良に住まいなり別荘なりがあったことはわかるのですが、それ以上くわしいことはわかりません。

ただし、かなりの量ある訳書について調べてみると、見つかるかぎり馬場氏の手がけたすべての本が、翻訳時点で英訳が刊行されているか、英語の文献であることがわかります。これがまたひとつ傍証になるでしょうか。

  • カール・ライネッケ『ベートーフェンのピアノ・ソナタその解釈と演奏法』(大正12) Carl Reinecke "The Beethoven Pianoforte Sonatas: Letters to a Lady" (1898)

  • ルービンシタイン『音楽とその大家』(大正12) Anton Rubinstein "Music and its Masters" (1892)
  • ウイットウォース『ニジンスキイの舞踊芸術』(大正13) Geoffrey Whitworth "The art of Nijinsky" (1913)

  • ヴアンテイン『ピアノ演奏法』(大正13) Sydney Vantyn "The foundations of musical aesthetics : Modern pianoforte technique" (1917)
  • ジヤン・クレツエンスキイ『シオパンの名曲』(大正13) Jan Kleczynski "Chopin's greater works" (1896)

  • アーネスト・ハント『音楽の創造者』(大正13) H. Ernest Hunt "Music Makers. A Festival Booklet" (1923)

  • 『シヨパンの日記・ニーツエの言葉』(大正13) Jennette Lee "Frederic Chopin—A Record" (1916) / Friedrich Nietzsche "Selected Aphorisms" (1911)
  • ルイーザ・テトラツイーニイ『歌の唱ひ方』(大正14) Luisa Tetrazzini "How to Sing" (1923)

  • アーネスト・ニュートン『作曲の仕方』(大正14) Ernest Newton "How to Compose a Song" (1915)

  • フランク・ダアムロツシユ『音楽の鑑賞を教へるための基礎原理 : 教へる人・学ぶ人・家庭のために』(大正14) Franck Damrosch "Some Essentials in the Teaching of Music, for the Consideration of Music-Teachers, Music-Students and Parents" (1916)

  • オポルト・アウエル『音楽の世界は廻る』(大正14) Leopold Auer "My Long Life in Music" (1923)

  • フエリツクス・ワインガルトネル『ベートーフエン以後の交響楽』(大正15) Felix Weingartner "The Symphony Since Beethoven" (1904)
  • バァテンシャウ『音楽の基礎智識』(大正15) Thomas Handel Bertenshaw "Elements of Music" (1896)
  • オポルト・アウヱル『ヴァイオリンの名曲とその解釈、演奏法』(昭和2) Leopold Auer "Violin Master Works and their Interpretation" (1925)

 

ちなみにライネッケの本の前書きでは、「目下多數の音樂專門家乃至一般の好愛家は英語の方に一層の親しみを持つ人達なのでありますから」と前置きして、ドイツ語原文ではなく英語版を底本にする旨を明記しています。『音楽の十字街に立つ』の底本が英語版だったとしてそれを明記しなかったのはなにか意図があったわけでなく、単純な勘違いによるものでしょう。

*1:最近個人出版で新訳が出たリムスキー=コルサコフ管弦楽法の基本』(https://gumroad.com/l/YOyEf)のような技法書はある程度古び方がゆるやかかもしれませんが、楽曲分析や作曲家研究・伝記などは、書き手や書かれた時代に興味がないかぎり一般に新しいものを優先したほうがよさそうです。

*2:実際には1921年12月。前の頁では「一九二二年の十月」に亡くなったと書いているのですが、どこが情報源だったのでしょうか。

*3:この題名、古いものから最先端のものまで膨大な音楽に通暁し統合したサンサーンスらしいなあと思ったら実際は、分かれ道に立つ近代音楽のことだと前書きに書いてありました。

*4:すでにどこかで指摘されていたら知りたいです。シュテーゲマンの『サン=サーンス』とニューグローヴに原著の記載はありませんでした。

カミーユ・サン=サーンス (フランスの作曲家) このサイトでは "Divagations sérieuses" が底本とされています(1922年に出た本という情報からの類推だと思われます)が、この本は1894年の "Problèmes et mystères" の増補版として文献の記載が一致しており、実際に "Problèmes ..." を読むと(https://archive.org/details/problmesetmyst00sain)これも文献の記載どおりの哲学的な論考で、『音楽の十字街に立つ』とは似ても似つきません。

*5:ちなみに、英語で読めるサン=サーンスの文章には、"Ecole Buissonnière" の抄訳である"Musical Memories" (1919. https://archive.org/details/musicalmemories017451mbp)と、いくつかの本から再編集した "On Music and Musicians" (2008) があります。

*6:次記事(『音楽の十字街に立つ』補遺:サン=サーンスとフランク - autour de 30 ans.)参照。

*7:『音楽家人名辞典』『標準音楽人名事典』『人物レファレンス事典』には記載なし。この論文(https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/10821/aes02-033.pdf)でも経歴不明とされていて、そもそも『音楽の...』がネットに公開されたのも文化庁裁定によるもので、ということは著作権継承者も不明になっているのでしょう。あとすぐに当たれるのは当時の『音楽年鑑』ぐらいでしょうか。